
まだ戦争前、家族そろって洋行から帰国した頃(下関市「藤原義江記念館」提供、以下同)
戦争が終わり、空腹が満たされてくると、あきは装うことに飢えていた。
一方義江は彼のもう1つの舞台である、恋することに飢えていた。
東京の下町を中心に10万人以上の人が死亡・行方不明になった関東大震災の時は、あきは前夫と別居中でありながら義江との不貞の贖罪のためか、夏の間夫の居る芦屋に滞在していた。あきの着物や装飾品、調度品のすべては京橋の自宅に置いてあったために、1つ残らず焼けてしまった。

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