引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(3)「デスマスクが語るもの」(後編)

執筆者:寺島英弥 2019年9月29日
タグ: 日本
エリア: アジア
ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 安田優少尉が蹶起と襲撃の計画を突然、村中孝次元大尉から指示されたのは「二・二六事件」前日の 1936(昭和11)年2月25日の午後3~4時ごろ。場所は砲工学校に近い中島莞爾少尉の下宿だった。

 殺害目標は、昭和天皇の重臣、斎藤実内大臣と、陸軍首脳の渡邊錠太郎教育総監(大将)。事件の震源地となった歩兵第三連隊(現在の港区六本木)でその夜、同じ襲撃班とされた同連隊の坂井直歩兵中尉(三重県出身、事件後に刑死)、士官学校同期の高橋太郎歩兵少尉(石川県出身、同)、麦屋清済歩兵少尉(埼玉県出身、無期懲役)と顔を合わせ、襲撃計画の詳細を練った。それからの行動を、事件後の5月19日、安田少尉が被告席に立った東京陸軍軍法会議の尋問調書から再現してみたい。

斎藤内大臣、渡辺総監の襲撃計画

「只今から昭和維新に向かって邁進する。合言葉は尊皇討奸、目標は斎藤内府」

 坂井中尉は26日午前2時ごろ、同志以外の下士官たちを起こして蹶起の理由を告げ、兵を招集して全員整列させて号令をかけた。

 午前4時20分ごろ、坂井中尉を先頭に約200名が営門を出発し、5時ごろ、当時の四谷区仲町にあった斎藤邸に到着。部隊は表門から侵入し、こじ開けられた雨戸から安田少尉は屋内へ駆け上がった。

 逃げる女中を追って階段を上ると、部屋から夫人が顔を出し、「待ってください、待ってください」と立ち塞がると、その向こうから斎藤内大臣が「何だ」と言って向かってきた。

「天誅」と、安田少尉は夫人の肩越しに拳銃を1発、相手は倒れた。「殺すなら私を殺してください」と覆いかぶさる夫人を避け、頭部胸部へさらに数発。「襲撃目的を達せり」と確信した。

  部隊は午前5時40分ごろ、赤坂離宮前に移動。坂井中尉ら主力は陸軍省(現在の憲政記念館付近)に向かい、安田少尉ら次の襲撃班約30名は、軍用貨物自動車に乗って杉並区荻窪の渡邊教育総監邸に急行した。

 6時ごろ、表門から乱入して、閉ざされた玄関の扉に軽機関銃を発射。その銃床で窓硝子や壁を打ち壊して中に入り、内扉を身体で押し開けようとした安田少尉は、 突然、拳銃で狙撃され、横によろめきながら玄関に這い出た。足がしびれたがやっと歩いて、裏手に回った兵の後から縁側を上がった。


  すると、寿々夫人が隣室の仕切り襖の前に立ち塞がり、「それが日本の軍隊ですか」と叫ぶ。「閣下の軍人ではない、陛下の軍隊である」と安田少尉は反駁して夫人を押し退け、襖を開けた。その瞬間、総監が布団を盾に輻射の姿で拳銃を発射。その弾が軍刀の柄頭に当たり左肘を掠めた。安田少尉は「撃て」と言いながら縁側に倒れ、軽機関銃手が応射した。倒れた総監の背中に、さらに安田少尉の拳銃の弾が2発撃ち込まれた。

 26日早朝の蹶起部隊は、青年将校たちに率いられた下士官・兵1483人。襲撃した先は首相官邸から新聞社まで16カ所に上り、斎藤内大臣、渡邊教育総監のほか、高橋是清蔵相、岡田啓介首相の義弟・松尾伝蔵陸軍大佐や、警備の巡査らも殺害した。

 蹶起趣意書は〈所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元凶なり〉と討伐理由を掲げ、青年将校らは天皇親政による昭和維新を成し遂げようとした。その目標を妨げる「奸賊」を誅滅すれば、妖雲を払うように、天皇の親政、統帥の下で国内の不平等、不正義、貧困を解決し、農村の窮乏も救う昭和維新、国家改造を一挙に実現できる、と信じた。

 安田少尉もまた尋問調書で、

〈一、軍上層部の政治的野心を除いて真の皇軍の姿に復せしめ度きこと。二、中間介在の勢力を除き以て挙軍一致の実を揚げんが為であり〉

 とし、最後に、

〈一つは村中、中島に殉じたのであります〉

 と同志への疑いなき忠誠を吐露した。

天草に届いた事件の報


「二・二六事件が起きたのを天草で知ったのは、26日の朝だった」

 と、安田善三郎さん(93)=神奈川県葉山町=は回想する。安田少尉の13歳下の弟で、当時は郷里の天草下島、宮地村(現天草市)の小学校に通う10歳。いつものように学校へ行ったら、「東京でなにか大変なことがあったみたい」と女の子から聞かされた。

山桜を背に二・二六事件と兄を語る安田善三郎さん=3月31日、神奈川県葉山町の自宅(筆者撮影)

 陸軍省は26日午後8時15分に事件の概要を報道機関に発表したが、翌27日の九州の地方紙は、『福岡日日新聞』、『九州日報』で1面トップが前代未聞の「空白」になり(2015年8月26日の『西日本新聞』)、『長崎新聞』でも1面がほぼ白紙で、印刷用鉛板の活字が削られた跡が紙面に生々しかった(2016年2月16日の同紙)。

 それでも、東京の中枢部を占拠した多数の兵の姿は市民の目にさらされ、情報は電話などの口コミで早く伝わったのだろう。

(筆者注:東京、大阪などの大手紙は号外や27日朝刊で陸軍省発表を報じ、『河北新報』をはじめ多くの地方紙も通信社電を1面で伝えた)

 東京には、安田家の10人きょうだいで一番年長の長女ホシノさん(故人)が、渡邊教育総監邸から遠くない杉並区荻窪で義兄冨田義雄さん(同)と暮らしており、内務省に勤めていた長男薫さん(同)と、陸軍砲工学校への入校で前年暮れに上京した次男の安田少尉が寄宿していた。その姉から26日午後、父清五郎さんあてに電報が届いた。

〈ミナブジ アンシンシロ〉

 との文面だった。

「読んだ父は『無事ならばなぜ、わざわざこんな電報を? 何かあったのか』と不吉なものを感じたようだ」

 と善三郎さんは言う。

 東京で起きた遠くの大事件が安田家の運命を変えたのは、3月1日の夕方、やはり船が届けた半日遅れの『九州日日新聞』の朝刊だった。

「事件に参加した将校が免官になった、という見出しに5人の名前が並び、その中に『安田優』があった。突然、わが家は悲嘆のどん底に落ち、母は半狂乱になった。父は塞ぎ込んで涙をこらえていた。私は子ども心にもただただ悲しかった。村人の目も、その日から180度変わった」

(筆者注:陸軍省は事件を鎮定した2月29日、参加した青年将校15人の免官発令を報道機関に発表。同日さらに5人の免官を追加発表し、安田少尉の名前があった)

悲嘆に暮れた家族


 村始まって以来の栄誉という士官学校合格の息子を育てた両親は、「安田の家は『教育、教育』と言っていながら、何にもならんかったじゃないか」という陰口にさらされた。村出身で初めて旧制高校に入った長男薫さんも、京都帝大経済学部時代、蜷川虎三教授(戦後、京都府知事)に共鳴する左翼学生として「京都学連事件」から続く特高の弾圧で検挙された経歴を持つ。村人の安田家へのそれまでの屈折した感情は、「兄弟の1人はアカで、1人は人殺しだ」という非難と差別の言葉に変わった。善三郎さんはいまも生々しく語る。

「薫の実家だということで、うちにはよく特高が来た。父が『ご苦労さん』とビールを注ぎ、連中はうまそうに飲んでいた。特高という言葉も知った」

「二・二六事件の当初の状況は鮮明に記憶している。兄が誰かを『殺した』ということは分かった。小学生だったが、まわりもそんな反応をしてきた。けんかをすれば、『お前の兄は人殺し』と言われた。いまだに引っかかっていることもある」

 授業が終わると、子どもたちはみんな校庭を走らされた。先生から「よし!」と言われた子は一団から外れていく。善三郎さんも一生懸命に走った。しかし、先生からはいつまでも名前は呼ばれず、なぜか分からぬまま最後まで走らされた。まるで、見せしめの懲罰でもあったかのように。

 逆境の中でも安田家の暮らしは続いた。善三郎さんは小学校から帰ると百姓仕事を手伝い、1944(昭和19)年、天草中学5年生の時に熊本の旧制五高を受験して落ちた。次に受けたのが陸軍士官学校。

「蹶起将校だった安田優の弟だから、受かるかどうか分からない」

 と思いながら、太平洋戦争の戦局が悪化を たどる折、

「どうせ死ぬんだ、いちかばちかだ、という気持ちがあった」

 と語る。

 士官学校に合格、入校したのは1945(昭和20)年2月。予科を埼玉県朝霞で過ごしたが、

「その間、事件絡みの理不尽な出来事はなかった」

 という。むしろ、東園猛中隊長から部屋に 呼ばれ、

「お前の兄は国士ではなかったし、国賊でもない。兄貴のことは忘れて勉強をしろ」

 と、気遣いの言葉を掛けてもらった。

「ありがたかった。それでも私は、事件のことを忘れることはできなかった」

  上陸してくる米軍戦車の下に、爆弾を抱えて身を投じ、自爆する――。軍部の「一億総玉砕」の掛け声の下、本土決戦を想定した訓練に明け暮れていた夏、終戦を告げる昭和天皇の玉音放送を聴いた。ついに士官となって戦場の兵を指揮することなく、それでも「死ぬことだけを考えていた」という善三郎さんは、予科の仲間たちと一緒に泣いた。

 天草への帰還から「戦後」は始まる。

 父清五郎さんは還暦を過ぎ、善三郎さんは妹の久枝さんと百姓仕事を手伝った。そして1年半。息子の行く末を案じた父が、

「お前はいつまでこんなことをしているんだ。大学を受けろ」

 と言った。深い心の傷を負った両親を残して上京することに申し訳なさはあったが、善三郎さんは慶應義塾大学法学部に合格。勉学の傍ら、田植えの季節には帰郷し、夏休み前も早く帰って農作業を手伝った。

 東京では、賢崇寺の慰霊法要に初めて参列した。二・二六事件の青年将校らが刑死して間もない1936(昭和11)年秋、栗原勇さん(故人)が呼び掛けた仏心会は、陸軍の監視も解けた終戦後、未亡人や遺児を支える活動など、遺族が心を寄せ合う場になっていた。

「初めて出会う遺族はごく普通の人たちで、それぞれにご苦労を重ねていた。でも、皆さんとは年が離れた一番の若造で、膝を交えて話をするほどにはまだ打ち解けなかった」

先人に導かれ仏心会代表に

 慶大を卒業した善三郎さんは、元職業軍人が創業者だった武蔵紙業株式会社(現ムサシ)に入社し、年月を経て仏心会の人々に関わるようになった。仏心会の2代目代表、河野司さん(故人)が先頭に立って二・二六事件殉難者の慰霊像(東京・渋谷)を建立した話を連載1回目で紹介したが、その清掃に通っている人がいることを知った(2019年8月15日『(1)たまさんの絵』)。

今泉義道少尉(今泉章利さん提供)

 今泉義道さん(故人)。事件に将校と兵62名が参加し、高橋是清蔵相の襲撃部隊などを赴援した近衛歩兵第三連隊(東京・赤坂)第七中隊の少尉だった。慰霊の観音像建立後、毎月「2」と「6」が付く日に欠かさず慰霊像を清掃していたという。善三郎さんは仏心会の法要の席でそんな話を聞き、

「今泉さんがやっているのだ、と私は恐縮し、清掃に通い始めた。遺族で当番も決めた。偉い方だと思った」

『懐かしき初年兵教育と私にとっての二・二六事件』という今泉義道さんの追想記(『草萌え 同台経済人の記録』所収)を、今泉さんの次男で仏心会の監事、世話役の今泉章利さん(69)からいただいた。それによると、事件前年の1935(昭和10)年に士官学校を卒業し、近衛歩兵三連隊の少尉に任官したばかりだった。

「父は、青年将校の国家改造運動の洗礼など受けていない“ノンポリ”で、初年兵教育の教官役に情熱を燃やしていた」

 と章利さんは言う。それからの顛末は、まさしく運命というほかない。

  翌1936年2月25日夜。今泉少尉は夜間演習を終えて帰営し、翌日の代休を鎌倉の実家で過ごそうと連隊近くの山王下で市電、タクシーを待ったが、全く来なかった。余りの寒さにやむなく連隊に引き返し、寝台に入ったのが26 日午前零時ごろ。だが、2時間ほどで眠りは破られた。中隊長代理の中橋基明中尉(佐賀県出身、事件後に刑死)に起こされ、

「おい、今泉、いよいよやるぞ。昭和維新の断行だ」

 と高橋蔵相の襲撃を告げられた。

〈寝耳に水、体中の血が一時に止まった〉

 と今泉少尉は追想記につづっている。

「無理にとは言わん。襲撃の間、貴公は(実行に加わらず)待機部隊を引率してくれ。行く、行かぬは貴公の判断に委す」

 と言われ、

「あまりに突然で私には決心いたしかねます。兵隊を連れて行動することも不同意です。先ず、私を斬ってから出掛けてください」

 と喘ぎ喘ぎ答えたという。

 1人部屋に残され苦悩していると、突然、部下の特務総長が完全武装で入ってきた。聞けば、中橋中尉の命令で、同じく蹶起部隊となった歩兵第一連隊(東京・六本木)から大量の小銃実包を運び込み、軍律違反の自責から「私は死にます」と言った。今泉少尉は、

「命じられるまま軍律を犯して実弾を準備し、何も知らず蹶起に参加させられる部下をかばい、救うのが俺の務め」

 と決意し、遺書をしたためて机の引き出しに納め、行動を共にした。


 今泉少尉は事件後、高橋蔵相襲撃援護の罪で禁錮4年の刑を受け、免官された。

慰霊の観音像の下で、献花を準備する今泉章利さん㊨ら仏心会の人々=7月12日、東京・渋谷(筆者撮影)

 善三郎さんが「偉い方だ」と思ったのには理由がある。

「事件に関わり免官となった人には陸軍の満州に渡ったり、蒙古軍の将校になったりした人も少なくない。今泉さんは軍ときっぱり縁を切り、上海の汽船会社に入って民間人として生き直した。ただ部下を思い、事件に巻き込まれたことに一切の恨みも悔いも語らず、戦後は仏心会に尽くし、人知れず慰霊の観音像の清掃に通っていた。私は心から感銘を受けた」


 そして、孤立した遺族をつないだ栗原勇さん、慰霊像建立の悲願に奔走した河野司さんら先人の思いにも導かれ、善三郎さんは72歳から13年間、仏心会代表を務めた。

目前で惨殺される父を見た9歳の少女

 1986(昭和61)年7月12日、二・二六事件の50周年の慰霊法要で、思いもよらぬ出来事があった。善三郎さんの人生を変えた日にもなった。

 取材のマスコミも含め大勢の参会者があった賢崇寺に、カトリックのシスター姿の女性が訪れた。渡邊和子さん。兄の安田少尉が襲撃、殺害した渡邊錠太郎陸軍教育総監の次女だった。

在りし日の渡邊和子さん(安田さん提供)

「その時の気持ちは表現しようがない」

 と善三郎さんは振り返る。安田と名乗れぬまま本堂に案内し、法要の後、境内の「二十二士の墓」に向かった渡邊さんの後を無言で歩いた。同じく襲撃した高橋太郎少尉の弟さんも一緒だった。

 静かに手を合わせて祈る渡邊さんの後ろ姿に、涙がこみ上げた。

「私が安田の弟です」

 とようやく言えただけで、ほとんど会話ができなかった。

 渡邊さんは、

「場違いな所へ来たのかと思ったのでした」

 と語ったが、その表情は穏やかだった。

「私たちに渡邊大将のお墓を教えてください。お参りさせていただきます」

 と伝えると、和子さんは、

「父も喜びます」

 と応えてくれた。

 安田さんは日ならずして高橋さんと、多磨霊園の渡邊総監の墓に詣でた。

 渡邊総監が襲われた背景には、青年将校らと同じ皇道派の眞崎甚三郎前総監が、対立する統制派との抗争で罷免された事件や、中庸な考えを持つ軍人だった渡邊総監の発言が当時、皇道派が問題視した「天皇機関説」擁護と激しく喧伝された経緯があった。

 襲撃時、9歳だった和子さんは父から物陰に隠されたという。

〈自分の目の前で父の身体が機関銃でうたれて蜂の巣のようになり、やがて数人の兵に銃剣で切りつけられ息絶えた光景は、今日でもあざやかに脳裏にやきつけられています〉

 と、自著『美しい人に』(PHP研究所)につづられている。

「安田優の弟が渡邊総監のご遺族に会って良いのか、という葛藤があった」

 と善三郎さんは、半生の苦しみを語った。それゆえ、

「自分の父を手に掛けた者の墓に、どうして手を合わせることができるのか」

 という衝撃と、自我を揺さぶる問いが生まれたという。答えを求めて渡邊さんの著書を読み、思い余って「お目にかかりたいのですが」と手紙をつづった。

 和子さんは当時、岡山市のノートルダム清心女子大学の学長(後にノートルダム清心学園理事長)。快諾の返信をもらって訪ね、神奈川県葉山町の自宅にも招き、2016年に和子さんが89歳で亡くなるまで心の交流を重ねた。

「『ゆるす』とはどういうことか」

 と善三郎さんは自問し続け、聖書の教えにも答えを模索し、和子さんとの出会いから5年後に洗礼を受けて教会に通ってきた。

 渡邊総監の命日の墓参りも、戦後に亡くなった寿々夫人の命日と合わせて現在まで続く。

「兄の優が蹶起に加わった動機は純粋だったと思うが、その行動でどれほど多くの人に悲しい、つらい思いを残したか。罪は決して消えない。なぜ、あそこまでやったのか。訴えるべきを訴えて宮城前で自決を選ぶべきではなかったか、そうすれば誰も殺すことはなかったのではないか――と憾(うら)んだこともあった。その純粋さを翻弄し、葬った政治のシナリオもあったのだろう。ただ、やっぱり血を分けた家族として、不憫に思う気持ちも消えないのです」

 処刑直後の兄のデスマスクが語る苦悶と悲しみもまた、善三郎さんから消えることはない。

 

 蹶起将校の遺族として事件後を生き抜いた「戦友」と善三郎さんが語る、青森県弘前市の波多江たまさん(6月に104歳で他界、連載第1回参照)の思いはどうだったのか。

同じ蹶起将校で、連載の主人公となる対馬勝雄中尉の生と死の軌跡、その意味を問い続けたたまさんの人生を追って、物語は東北に飛ぶ。

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執筆者プロフィール
寺島英弥 ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/
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