昭和28(1953)年8月の夜、赤坂氷川町の静かな高台に興奮した女の高い声が漏れ聞こえた。それは氷川神社並びの藤原歌劇研究所からで、藤原あきの声であった。
〈いつも大声を出したことのないママが、「あの手紙は裏庭へ捨てました。そんなに大事なら探しに行ってらっしゃい」といい、困ったパパは廊下をウロウロしてました〉(『文藝春秋』「昭和を熱くした50人」平成2年2月1日号)
藤原義江夫妻を息子と同じくパパママと呼ぶ、居候の妹尾河童の証言だ。
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