旧統一教会問題の「適切な大きさ」を測る

執筆者:河野有理 2022年12月30日
エリア: アジア
安倍元首相暗殺事件は、図らずも政治と宗教のあり方を見直すきっかけとなった (C)時事通信フォト
安倍晋三元首相暗殺事件は、日本の政治と宗教をめぐる激しい議論を喚起した。だが、旧統一教会の政治関与を自民党の党派性のみに還元するのは妥当だろうか。問題は、戦後保守の社会基盤のあり方と、その中における宗教団体の位置付けを視野に収める、大きな文脈の中にある。
 大きい声じゃ云えないが、何が一番いい商売かと云えば、宗教だね。宗教で、人を救う道だ。面白いほど迷いの人間が聞きつたえてやって来る…面白いもンだ。喜んで金を出す人間ばかりだ。金を渋るものがないと云うのは宗教の力だね。(林芙美子『浮雲』、新潮文庫、293-294頁)

 成瀬巳喜男監督で映画化もされた林芙美子『浮雲』の、高峰秀子演じるヒロインと絡む脇役「伊庭杉夫」のセリフである。映画では山形勲が、純粋に金儲けを目的に「大日向教」にはいり教団内で地歩を固めていく、人品は卑しいがとにかくしぶとくたくましいこの役柄を好演している。

 映画の公開は1955年。原作となる小説は、1949年から1951年にかけて連載された。敗戦直後から顕著だった、雨後の筍のような宗教団体の叢生という事態がこの描写の背景にあるのは疑いない。実際、作中でも実在の新宗教団体・璽宇が引き合いに出されている。天皇の人間宣言に伴い天皇の神格が自らに移ったと主張する教祖「璽光尊」を中心に、双葉山や呉清源といった有名人を広告塔的信者として擁し、天変地異が起きるなどと不穏な風説を流布したこの教団が、警察からの再三の出頭命令を拒み検挙されたのは1947年の1月のことであった(璽光尊事件)。田園調布に「本殿」の建設を計画しているとされる羽振りの良い作中の「大日向教」には、璽宇をはじめとする今はとっくに忘れ去られてしまった有象無象の新興宗教団体の姿が重ね合わされているのであろう。

戦後保守の社会的基盤と「反社会的集団」

 同じころ、やはり「戦争が終わってから新興宗教や各種の迷信が非常な勢で発達して来たやうに見えます」と述べていたのは社会学者・清水幾太郎であった。当時の世相を分析した『私の社会観』(1951年)で、清水がとりわけ注目していたのは「反社会的集団」である。「社会の実質」が「集団の交錯であり複合」である点は洋の東西を問わない。だが、清水の見るところ、西洋で発達した「近代的集団」は「誰でも自由に出入り出来る開放的な性格」を持つのに対し、日本の場合にはそれとは正反対の特徴を帯びがちになるのだという。

 それ等は不気味な秘密の空気に包まれていて、外部の人間には構造や組織がよく判らない。誰でも自由に出入りできるのでなく、一度これに入り込むと、広く生活の基本的な部面に亙ってその集団独特の統制に服さねばならぬ。また、この集団から脅迫や暴行を受けた場合、警察など到底頼みにならぬ。そこでは犯罪が犯罪とならず、正義が正義として通用せぬといふ意味で、自ら、別個の天地を形作っている。(3頁)

 もちろん、清水とてこうした欧米と日本の対比が極端に過ぎることには自覚的であった。欧米諸国にこうした閉鎖的集団がないというのではない。だが、問題は社会の中でのその比重であり、存在感である。日本においては、閉鎖的で不透明な反「近代」的特徴を持った集団の跋扈が許されている、というのである。実はここでの清水の問題関心の焦点は、当時の保守党政権を支える社会基盤に合わされていた。こうした反「近代」的特徴を持った「反社会的集団」と、当時の保守政権とが相互に依存する関係にあり、そうした集団は、事実上、「保守的諸政党の院外団」(19頁)に他ならない、というのである。

 「反社会的集団」としてこの論文で清水が具体的に念頭に置いていたのは、ヤクザやテキヤといったアウトローの集団であった。だが、冒頭にあげたような有象無象の新興宗教団体が清水のいう、「近代的集団」と「反社会的集団」とのどちらに近いかと問えば、答えは聞かずとも明らかだったであろう。「反社会的集団」が持つ反近代的特徴や条件として清水が挙げるもの――「家族の模倣」や「号令に対する飢餓」――は、新興宗教団体にもそのまま当てはまる。

 この点は、林も見逃さない。『浮雲』の「大日向教」の教祖の出自は追放軍人という設定で、そうした元軍人としての出自が教団統率者としての資質との親和性が高いとされている。「こうした軍人あがりは、気合をかける事は板についているからね。すべて烏合の衆相手には、高飛車な気合だけなンだ」(『浮雲』268頁)。社会学者・清水幾太郎が1950年代の「反社会集団」に見てとった封建・軍国日本の「復員」現象は、作家・林芙美子の手によって、宗教団体に即して描きだされたとも言えるだろう。

宗教団体は本当に「戦後政治を動かしてきた」のか?

 やや点描風に、戦後日本の原点ちかくに、すでに「反社会的集団」としての宗教団体の姿が垣間見えることを示してきた。「すでに」というのは他でもない、今年最大の話題であった安倍晋三元首相暗殺事件に伴って前景化した旧統一教会(世界平和統一家庭連合)をめぐる問題である。

 この問題の根は深い。それをさかのぼっていくならば、第二次安倍政権期はもちろん、霊感商法や合同結婚式が問題視された1980年代をもこえてもっと遠くに、まさに『浮雲』や『私の社会観』で活写されたような戦後の混乱期にまで至るのではないか。旧統一教会と自民党政治のかかわり、それを本気で問い直そうとすれば戦後日本を丸ごと問い直す必要がある。多くの人がそう直観したからこそ、ここまで大きく問題化したという側面があろう。旧統一教会の政界への進出をめぐる懸念が単純な党派性に還元されるものとは思わない。

 しかし、だからこそ他方で、問題の大きさは正確に目測される必要がある、とも筆者は考える。メディアによる過剰な報道に影響され、問題を実態より過大に評価することはそれ自体で、宗教と政治をめぐる社会の議論のあり方にゆがみをもたらしかねない。もちろん、「問題の適切な大きさ」を正確に測るためには、旧統一教会と自民党の関係の起源をめぐる精密実証的な歴史研究が、あるいはまた諸外国の宗教団体規制のあり方を含めた比較分析が、本来は必要であろう。残念ながら紙幅と著者の能力の不足のためにそれは叶わない。そこで以下では、主に二次文献によりつつ、この問題を適切なスケールで扱うために必要な視点について述べたい。

 第一に、政権党に関わろうとする宗教団体は、当たり前なのだが、旧統一教会に限られないということである。旧統一教会問題を契機にして一躍注目されることになった宗教社会学者・塚田穂高の『宗教と政治の転轍点』(2015年)は、皇室崇敬・愛国心・保守的価値観など一連の政策的パッケージの下に各種新宗教が「相乗り」的に参集し、政治関与を強めていく有様を見事に活写する。神社本庁・神道政治連盟(神政連)、生長の家・生長の家政治連合、日本会議とそれに参加する各種団体、たとえば新生佛教教団、念法眞教、黒住教、佛所護念会教団、霊友会、オイスカインターナショナル、モラロジー研究所、大和教団、倫理研究所、解脱会、崇教真光などがそこには登場する。これら宗教勢力の「保守合同」的状況の記述において、旧統一教会に割かれる紙幅はごくわずかにすぎないことは改めて思い起こされるべきではないか。

 なるほど旧統一教会については韓国系キリスト教という出自に由来するその「反日」的教義は、上述した皇室尊崇・愛国系諸団体と旧統一教会との識別を容易なものとするだろう。だが他方で、保守的な価値推進団体としての性格においては旧統一教会とこれら諸派の相似は、同書でも塚田が指摘するように、明らかである。今回の事件を契機に一部左派陣営には「反日」フレームの使用が散見されるが、こうした手法は統一教会を叩くためには短期的には効果を上げるように見えて、そうした論者の主観的意図に即して言えばむしろ「敵に塩を送る」類の効果しか持ちえないことは指摘するべきだろう。

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カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
河野有理 1979年生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。日本政治思想史専攻。首都大学東京法学部(当時)教授を経て、現在、法政大学法学部教授。主な著書に『明六雑誌の政治思想』(東京大学出版会、2011年)、『田口卯吉の夢』(慶應義塾大学出版会、2013年)、『近代日本政治思想史』(編、ナカニシヤ出版、2014年)、『偽史の政治学』(白水社、2016年)、『日本の夜の公共圏:スナック研究序説』(共著、白水社、2017年)がある。
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