なぜ私たちは世界史が苦手だったのか――「宗教」という虎の巻

執筆者:島田裕巳 2023年5月6日
タグ: 日本
エリア: その他
宗教が世界史の原動力であることが理解できれば、いろいろな謎が解けてくる 
(C)PPstudio/shutterstock

 

 受験生の頃、世界史が苦手だったという人は少なくない。いったいなぜだろうか。この度、『世界史が苦手な娘に宗教史を教えたら東大に合格した』(読書人)を上梓した宗教学者の島田裕巳氏は、宗教こそが世界史の原動力であり、宗教を理解すれば世界史も理解できると確言する。

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 私も「世界史」という科目は苦手だった。だから、受験では選択しなかったし、高校の授業もちゃんとは出席しなかった。

 しかし、宗教について研究を進めていくなかで、特に世界を視野に考えるようになると、世界史と宗教の関連を見ていく必要がどうしても出てくる。だから、自ずと世界史をもう一度学び直すようになってきた。

 娘が東大を受験すると言い出したとき、改めて入試問題を見てみた。私が受験したときには、日本史と政治経済を選んだので、世界史の問題は今回はじめて目にしたことになる。今は、東大入試の2次試験で政治経済は選択できなくなっている。娘は世界史と地理を選んだ。

 日本史と世界史の問題を比べてみると、そこに大きな違いがあることが分かった。東大の入試問題の傾向は、基本的に私が受験した50年ほど前と変わっていない。だから、50年前もそうだったのだろうが、世界史では問題文のなかで宗教がいかに重要かが強調され、宗教に関連した問題もかなり多い。これは東大に限らず、京大でもそうだし、センター試験でも同じだ。

 一方、日本史になると、宗教のことはさほど重視されていない。せいぜい、文化史のなかで扱われるだけだ。これほど世界史と日本史で宗教の扱い方が違うのか、それは私にとって大きな驚きだった。

宗教は帝国より強い

 たしかに世界史を振り返ってみるならば、その動きと宗教は密接に関連している。世界の歴史を大きく動かしてきたのは、古代からずっと「帝国」という存在だった。アッシリアやアケメネス朝ペルシア、あるいは中国の秦などから帝国の歴史がはじまるが、それぞれの帝国は版図を拡大し、それが広がりすぎると衰退の方向に向かい、やがて滅んでいった。この帝国の拡大と衰退が、世界の歴史を動かしてきた。

 ローマ帝国になると、その後の歴史に大きな影響を与えたわけだが、重要なのは、広大な帝国を統治するためにキリスト教の信仰を活用したことだ。最初、ローマ帝国はキリスト教を弾圧し、むしろ皇帝崇拝を推し進めようとしたが、途中から、一つの神を信仰するほうが統治に有効だろうと判断され、キリスト教が国教の地位を獲得した。

 その後、ローマ帝国は東西に分裂し、それにともなってキリスト教会はカトリックと正教会に分かれるが、キリスト教世界の形成にローマ帝国は大きく貢献した。

 イスラム教も、イスラム帝国とともに信仰圏が拡大した。イスラム帝国の存在がなければ、今日のように、イスラム教が世界第2位の宗教に押し上げられることはなかったはずだ。モンゴル帝国の場合は、キリスト教やイスラム教に匹敵する強固な宗教を持たなかったために、チベット仏教を取り入れたり、イスラム教に改宗したりと、帝国固有の宗教を広げることにはならなかった。

 帝国は滅びていっても、帝国が広げた宗教は消えることがない。宗教のほうが、帝国よりも強固なのだ。

「なるほど、帝国と宗教は密接に関連しながら世界を動かしてきたのか」

 世界史嫌いの高校生だった私は、その点が分かっていなかった。分かっていたら、きっと入試科目に世界史を選択していたことだろう。高校の世界史の先生も、このことを教えてくれなかった。いや、もしかしたら、授業に熱心でなかった私が聞き逃していた可能性もある。

大事件の裏には宗教あり

 東大の入試問題が強調するように、世界の歴史において宗教が極めて重要な役割を果たしているのなら、当然、それは現代にも及んでいるはずだ。

 そのことは何より、2022年に世界で起こった出来事に示されている。

 日本では安倍晋三元首相の狙撃事件をきっかけに、旧統一教会、さらにはカルトのことが大きな問題になった。安倍元首相の国葬は、無宗教式で行われたものの、葬式という行為にはどうしても宗教性が伴う。少なくとも霊の観念がその背後にあることは確かだ。

 イギリスでも、エリザベス女王が亡くなり国葬となったがが、こちらは英国国教会の形式で営まれた。エリザベス女王が国教会のトップでもあるから当然のことだが、その際に、当時のリズ・トラス首相が聖書の一節を朗読したのは印象的だった。日本の国葬ではあり得ないことだ。

 アメリカでは、人工妊娠中絶を禁止する法律を各州が制定することを認める最高裁判所の判決が下されたが、これは、ドナルド・トランプ前大統領など共和党の大統領候補を支持してきた福音派の長年の主張である。

 そのアメリカと対立してきたイランでは、「ヒジャブ」と呼ばれるスカーフの被り方が悪いと警察につかまった女性が亡くなり、拷問の末のことではないかと激しい抗議活動が起こった。イランがイスラム共和国になったのは1979年の革命の結果だが、そうした体制に強固な異議が申し立てられたのだ。

 さらに、2022年のはじめに起こったロシアのウクライナ侵攻も、正教会の信仰を考えに入れないと、その原因を理解できない。2018年にはウクライナの正教会がモスクワの正教会から独立した。さらに、ウクライナでは、典礼は正教会のやり方に従うものの、ローマ教皇の権威を認める東方典礼カトリック教会が勢力を拡大している。これも、ロシア側から見れば、カトリックによって、さらに言えば、西ヨーロッパによって、ウクライナが侵され、その脅威がロシアに及びつつあることを意味する。ウクライナ侵攻は、宗教戦争の意味合いを持ち、その点で根が深いのだ。

世界史の勉強に終わりはない

 たしかに、先進国では宗教の衰退という現象が起こっている。ヨーロッパでは若者を中心としてキリスト教離れが進み、アメリカでも徐々に無宗教、つまりは特定のキリスト教会に属さない人々が増えている。

 こうした世俗化の波は、やがて他の国々にも及ぶだろうが、今のところは、宗教が強い力を持ち、政治や社会に大きな影響を与えている国が少なくない。アフリカの南部ではカトリックが勢力を拡大しているし、中国でも、共産党による弾圧を受けつつも、キリスト教の非合法の地下教会や家庭教会に多くの人間が集まるようになってきた。

 あまり注目されていないが、これまでカトリックの牙城とされてきたブラジルを中心とした中南米では、カトリックの信者が減り、プロテスタントの福音派やペンテコステ派に改宗する動きが大規模な形で起こっている。

 福音派は、どの国でも、日本の新宗教と同様に現世利益を約束し、病気直しなどの奇蹟を売り物にするが、経済が発展すると、都市化にともなってどの国でも必ずやそうした事態が生じるのである。宗教をめぐる地政学は、今も激動の最中にあるのだ。

 宗教が世界史の原動力であることが理解できれば、いろいろな謎が解けてくる。宗教の中身まで知れば、理解はさらに進む。

 日本人は、キリスト教についてはある程度そのあり方について理解しているものの、正教会となると、カトリックやプロテスタントとどう違うのか、そこが分かっていない。

 「旧約聖書」にしても、関心は高いが、それがもともとユダヤ教の聖典であったことについて正しく理解しているとは言い難い。旧約聖書は、言ってみれば、ユダヤ民族にとっての神話で、日本の「古事記」や「日本書紀」のようなものだ。

 にもかかわらず、その物語は、キリスト教やイスラム教に取り入れられ、世界の歴史は、あたかもユダヤ民族からはじまるようにとらえられている。西欧のキリスト教徒は、ユダヤ・キリスト教の伝統の上に自分たちがあると言うが、ユダヤ民族の側にはそうした意識はない。考えてみると、それはかなり不思議なことだ。

 最近では、インバウンドが再開され、日本の街には外国の人々が多く見られるようになった。その人たちは、日本人とは異なる宗教への信仰を持っている。いったい外国の人たちがそれぞれにどういう信仰を持っているのか。その目でインバウンドの光景を眺めてみると、これまでとは違う感覚になるのではないだろうか。

 今、改めて世界史における宗教の重要性に気づいてみると、高校時代に世界史をもっとちゃんと勉強していればよかったと思えてくる。

 ただし、現在は長寿社会になり、高齢者になっても先は長い。世界史と宗教の関係について勉強を進める時間と余裕はいくらでもある。しかも、宗教の世界は奥が深い。勉強が尽きることはない。世界史が苦手だった人こそ、世界における宗教について学ぶ機会に恵まれているのではないだろうか。

『世界史が苦手な娘に宗教史を教えたら東大に合格した』(読書人)

 

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
島田裕巳() 宗教学者、作家。東京大学文学部卒業、同大学大学院人文科学研究会博士課程修了(専攻は宗教学)。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。 現代における宗教現象、新宗教運動、世界の宗教、葬式を中心とした冠婚葬祭など、宗教現象については幅広く扱う。
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