日本で最初の感染例が判明(2020年1月16日)

執筆者:松本哲哉 2023年10月10日
タグ: 新型コロナ
エリア: アジア

混乱を避けるための配慮が、危険回避の準備を遅らせた可能性もある[日本で最初の感染例が判明したことを受け、記者会見する厚生労働省結核感染症課の日下英司課長(右)=2020年1月16日、東京・霞が関](C)時事

新型コロナウイルス感染症への対応をめぐり、日本の行政や危機管理、あるいは医療体制上に課題はいくつも浮上した。だが、その喧しい「犯人捜し」に飽きれば、この未曾有の事態には早くも風化が忍び寄る。未知のリスクと向き合う時、暗中模索に置かれるのは専門家も一般市民も変わらない。医療関係者が臨床の現場で何を恐れ、どのようにして科学的にベストと考えられる判断を重ねたかの記録は、コロナ禍を今後に生かす重要な基礎となるだろう。国際医療福祉大学成田病院で診察にあたった松本哲哉氏の体験を連続企画で振り返る。

 

躊躇いながらの注意喚起

 2020年1月16日、私は東京都赤羽にある講堂の壇上でマイクを握り、満員となっている会場の医療従事者を前に、総合司会として講習会最後の挨拶を行っていた。当日は大阪のサテライト会場とつないで、厚生労働省が主催する院内感染対策講習会が行われていた。参加者は前日から2日間続けて講習を受けており、皆の顔には疲労感とようやく終わるという安堵感が表れていた。

「皆様、長い時間本当にお疲れ様でした。今回の講習会は、地域において指導的立場を担うことが期待される病院等の医療従事者という位置付けの方々にお集まりいただいておりますので、今回の講習会で得られた知識をご自身の施設だけでなく、是非、周辺の医療機関の指導にも役立てていただければと思います。

 なお、昨年12月頃から中国で原因不明の肺炎が発生しているというニュースが報じられています。これまでの報告では中国政府は人から人に伝播する可能性は否定しているようですが、それならこんなに患者が続けて出るわけはないので、私個人としては人から人への感染は起こるだろうと思っています。現時点では患者は中国の武漢に限定されているようですし、まだ今後、国内に入ってくるかどうかもわかりませんが、こういう場合は国内に入ってくることも想定しておいた方が良いと思いますので、今後の情報を注視しておいてください」

 沈黙の中で一瞬、緊張感が走るのを感じたが、多くの参加者の顔からは「早く終わらないかな」という不満が読み取れた。

「それでは皆様、これで全てのスケジュールが終了しました。遠方から来られた方も多いですが、どうぞお気を付けてお帰り下さい」

 私の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、皆が一斉に席を立ち、会場は慌ただしい雰囲気に一変した。ある人は宿泊のため大きな荷物を持ちながら、皆が会場の出口に向かってわれ先に移動を始めた。

 講習会の関係者はアンケートの回収やあとかたづけに追われ、私も控え室に戻って「どうもお疲れ様でした」とその場にいた人達に声をかけた。自分の荷物をまとめながら、2日間の進行役は疲れたけれど、とにかく無事に終わって一安心。また明日から通常の仕事に戻るのか、と思いながら、先程、皆に言った原因不明の肺炎のことが気になっていた。

 果たして人から人に本当にうつるのだろうか、各病院の感染対策を担っている医療従事者に対して、やや脅しめいたことを言ってしまったけど、大丈夫だったろうか。まあ、変に安心感を抱かせるよりは、念のため警戒しなければいけないというメッセージは出しておいても良かったのではないか、と自分をなだめるようにして会場を後にした。

「人から人への感染」否定に強い違和感

 その後、帰宅してニュースを見ると、「厚生労働省は本日午前、中国・湖北省武漢市を訪れていた神奈川県在住の30歳代の男性が肺炎の症状を訴え、新型コロナウイルスに感染していたと発表した」という報道がなされていた。すでに前日、国立感染症研究所による検査の結果で新型コロナウイルスの陽性反応が出た、ということであり、まさにこの院内感染対策講習会の最中に日本で最初の感染例が判明し、厚生労働省が記者会見を行っていたことになる。

「人から人にうつる可能性は高いし、国内に入ってくることも念のため想定しておいた方が良い」と言った私の言葉は、そのニュースを知っている人からすれば「何言ってるの。もう国内最初の感染例が報告されてるよ」と反論されたかもしれない。しかし、2日間、隔離に近い状態でみっちり講習を受けていた参加者達は、その間ニュースに触れることはなく、当日の夕方までそのことを私を含めて誰も知らずにいたのであった。

 報道の記事をさらに読み込んでいくと、「厚労省結核感染症課によると、人から人に感染が続いていく状況は確認されていない」という記述があった。私は「何をバカな!」と思わず言葉に出していた。中国で集団で発生している病気があって、国内にも同じ病気の患者が発生し、その患者から同じウイルスが検出されている。この状況にあって、なぜ人から人に感染する、いわゆる伝染病であることを否定するような判断ができるのか、強い違和感を覚えた。……

カテゴリ: 医療・サイエンス
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執筆者プロフィール
松本哲哉(まつもとてつや) 国際医療福祉大学医学部感染症学講座代表教授、国際医療福祉大学成田病院感染制御部部長 1987年長崎大学医学部を卒業後、同第二内科に入局。米国ハーバード大学留学後、東邦大学講師、東京医科大学主任教授を経て、2018年から現職。日本化学療法学会理事長、日本臨床微生物学会理事長、日本環境感染学会COVID-19対策委員長。日本感染症学会専門医・指導医。PMDA委員、AMEDプログラムスーパーバイザー、東京都iCDC専門家ボード感染制御チームリーダー等も兼務。主な著書に『新型コロナウイルス 「オミクロン株」完全対策BOOK』(宝島社、監修)、『福祉現場のための感染症対策入門』(中央法規出版、監修)、『これだけは知っておきたい日常診療で遭遇する耐性菌ESBL産生菌』(医薬ジャーナル社)、『介護スタッフのための 高齢者施設の感染対策』(ヴァンメディカル)など。
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