
ウクライナとガザでの戦争に世界が振り回された2023年は、ナゴルノ・カラバフ紛争が大きく動いた年でもあった。アゼルバイジャン領内でアルメニア人が多数を占めるこの地域で、支配や帰属を巡って30年あまり続いてきたこの紛争は、前者2つの戦争の大立ち回りの陰であまり注目されないまま、アゼルバイジャンの軍事的勝利に終わった。
ナゴルノ・カラバフは、1990年代の第1次紛争で勝利したアルメニア側が長年、周辺も含めて広範囲に支配していた。アゼルバイジャンはその相当部分を、2020年の第2次紛争で取り戻し、残る領土の奪還を目指して23年9月に新たに攻撃を始めた。軍事面で劣勢のアルメニア側はわずか1日で降伏し、十数万人の住民のほぼ全員が難民となってアルメニア本土に逃れた。「民族浄化」と見なされかねない結末である。
この紛争では、これまでも虐殺や住民の追放、戦争犯罪行為がたびたび指摘されてきた。なぜ対立はこれほど激しくなったのか。両者が憎み合うのはなぜか。
しばしば言われてきたのは、重石となってきたソ連が崩壊したために対立が抑えられなくなったとする、いわば「パンドラの箱」理論による説明である。ソ連時代、両者は国境なく行き来し、ナゴルノ・カラバフがどちらに属そうが大きな違いはなかった。その枠組みが消滅し、両者がそれぞれ独立国家として立ちゆこうとする中で民族意識が高まり、衝突に至った――というのである。
米マイアミ大学准教授クリスタ・ゴフの著書『Nested Nationalism(入れ子式ナショナリズム)』(未邦訳)1は、このような発想を俗説として批判し、ソ連時代の経緯を探る重要性を強調する。アゼルバイジャンの少数民族地域に点在する文書館を丹念に回り、昔を知る住民への聞き書きを重ねた彼女は、対立の萌芽がソ連体制の揺らぎよりもずっと以前、ソ連がまだ若き国家だった1930年代に遡ると考える。
同書が実際に世に出たのは第2次紛争間もない2021年初めだが、状況が変わった今もなおその分析は輝きを失わず、多くの人に共有されるべき価値を持つと考える。同書を通じて、この紛争の性質を捉え直してみたい。

ナショナリズムの重層構造
同書の題名「入れ子式ナショナリズム」とは、ソ連史やソ連政治の研究者の間で「マトリョーシカ・ナショナリズム」として知られる社会構造である2。
ロシアの民芸品「マトリョーシカ」人形は、上下に切り離された胴の部分を開くと、中から同じ形の少し小さい人形が現れる。それを5回とか10回とか繰り返すと、中から出てくる人形も次第に小さくなる。旧ソ連のナショナリズムもこれと同様に、一つのナショナリズムの内部に別のナショナリズムが入る「入れ子構造」だというのである。
具体的には、通常だとロシア・ナショナリズムが影響力を持つ当時のソ連の中に、アゼルバイジャン共和国があり、共和国名の由来となった基幹民族アゼルバイジャン人(アゼリ人)のナショナリズムが存在していた。その中にアルメニア人をはじめとする少数民族のコミュニティーがあり、さらにその内部に異なる民族の社会があり、各段階がそれぞれのナショナリズムを持っていた。
現在のロシア・ウクライナ戦争を見ると、周辺諸国を支配しようとするロシアのナショナリズムがひときわ目立つ。しかし、実際には周辺諸国内でも、少数民族を支配しようとするナショナリズムが大手を振っている。こうしたナショナリズムの重層構造がナゴルノ・カラバフ紛争の土壌を培った、というのである。
現在アゼルバイジャンが位置する地方では、ロシア革命翌年の1918年にアゼルバイジャン民主共和国が成立し、1920年に「アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国」としてソ連に編入された。そこで翌1921年に実施された国勢調査では、後に「アゼリ人」と呼ばれるようになるテュルク人の占める割合は59%にとどまり、圧倒的多数とは言いがたい。多民族都市だった首都バクーに至っては、44%を占めるロシア人が政治経済面での主導権を握っていた。
このままだと少数派に転落しかねない。アゼリ人のそのような危機感が、少数民族を同化させることによってその割合を増やす営みに結びついた。各地の少数民族地域の学校でアゼリ語の教育が強要された。少数民族言語の学校に入ろうとする生徒には、非公式の料金を課して、これを妨害したりもした。少数民族の間にも、少数民族言語よりアゼリ語を学んだ方が進学や出世の可能性も広がる、との意識から同化をいとわない人がいた。
アゼルバイジャンで起きたのは、ソ連に権力を集中させる「ロシア化」ではなく、共和国のアゼリ人統治の基盤を安定させるための「アゼルバイジャン化」だったのである。……

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