
「私は今すぐ書記長のところに行ってあなたの振舞いについて話します。これはいったい何たることか……」。怒っているのはソ連最初の女性政治局員であり文化大臣のエカチェリーナ・フルツェワ、怒らせたのはわれらがユーリーである。2人の衝突は1969年3月、ユーリーが芸術監督を務めるモスクワのタガンカ劇場で起こった。ユーリーは作家モジャーエフが1966年に『ノーヴイ・ミール(新世界)』誌に発表した小説に基づいて、芝居「しぶとい奴」を上演しようと頑張っていた。コルホーズの労働条件の悪さに耐えかねて脱退を決意し、役人の圧力にも負けず個人の意思を貫き通す男の物語である。ユーリーはすでに1968年春、これを上演しようとして禁止されていた。当時はチェコスロヴァキアで改革運動が進行中で、ブレジネフ率いるソ連指導部は緊張していた。同年8月にワルシャワ条約機構軍がプラハに侵攻し、改革運動は潰された。その延長上でソ連国内の締め付けも強まった。1969年3月のフルツェワとの衝突では、ユーリーは誤解もあって彼女を激昂させてしまい、職も奪われ、共産党からも除名された。
ところがである。2週間ほどで彼は復職して、党籍も取り戻した。ブレジネフに手紙を書いたことが功を奏したのである。「彼は慈悲をかけてくれて、『仕事をさせてやればいいじゃないか』といってくれた」とユーリーは振り返っている。1975年にもユーリーは同じ芝居の上演を試み、やはり党ににらまれるが、そのときもまたブレジネフに手紙を書いて、劇場にとどまることができた1。
1964年10月に権力の座についたブレジネフのもとで、いっときソ連に広がった開放感は減退していった。だが、だからといってスターリン時代のような監視体制が復活したわけではない。ブレジネフが築いたのは儀礼と複雑な回路によって緩慢に、だが安定的に動く、巨大な組織体であった。ユーリーのような自主独立の人にはわずらわしいことも多かったが、うまく回路をたどれば道が開けることもあったわけである。より普通の人々についていうならば、彼らの大多数はブレジネフ時代のソ連帝国において、はじめて明日のことをあまり思い煩わずに暮らすことができるようになったのだった。ブレジネフは帝国の大成者なのである。
1. ソ連市民としての自己形成
赤色技師ブレジネフ
ブレジネフの父親イリヤ(1875-1936年〔生没年には異説もある〕)は、今日のロシア西部にあたるクルスク県の貧しい家庭に生まれた。彼が生まれた村はブレジネヴォといい、この地名がブレジネフという苗字の起源になったと考えられる。1900年からイリヤは、今日のウクライナ東部にあるエカチェリノスラフ県のカメンスコエで、金属工場の圧延工として働き出した。じきにイリヤは工場の同僚のところに弁当をもってくるナターリャ・マザロワ(1886-1975年)という娘が好きになった。彼女の父親の出身地はウクライナのドネツクである。1904年にイリヤとナターリャは結婚した。翌年女児が生まれたがすぐに亡くなった。1906年12月6日(この日付のみ旧暦)に生まれたレオニードが、今回の主人公である。1909年には妹ヴェーラ、1912年には弟ヤーコフが生まれた。
父親がクルスク県の生まれで、ウクライナ東部に働きにきた労働者である点では、ブレジネフはフルシチョフと同じである。二人ともウクライナを基盤にして出世し、フルシチョフが後進のブレジネフを引き立てたのだった。
ブレジネフの父は子どもを甘やかさなかったが、罰することもなかったという。家にいるときも髭を剃るなど、何事につけきちょうめんであり、読み書きができた。母ナターリャも、この時代の労働者の娘としては珍しく、読み書きができた2。
ブレジネフの両親、とくに母親の民族的出自は、ロシア人かウクライナ人かはっきりしないところがある3。そもそも20世紀初頭のロシア帝国では、両者の区別はさほど厳格ではなかった。ブレジネフ自身は第二次世界大戦中の幹部登録書類には自分の民族を「ウクライナ人」と記し、党の最高指導部に入ってからは「ロシア人」と書いているようである4。

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