ナゴルノ・カラバフ「統一」後の現在(3) 住民の定着進むラチン

執筆者:国末憲人 2025年2月10日
タグ: 紛争
エリア: アジア ヨーロッパ
ラチンの風景(筆者撮影、以下すべて)
アルメニア本土とナゴルノ・カラバフを結ぶ交通の要所ラチンは、ソ連時代からアゼルバイジャン人が住民の主流だった。第1次紛争でアルメニア支配下となり、第2次紛争とその後の勝利でアゼルバイジャン人の帰還が始まった。再興が進む街でアルメニア人をどう思うかと聞いてみる。この地で起業して1年だという若者は「問題は、人ではなく政府だ」と言い、ソ連時代に少数派のアルメニア人が近所にいたという老婦人は「許さない。当時のアルメニア人と今のアルメニア人は、考えていることが全く違う」と言った。【現地レポート】



 南コーカサス情勢にかかわる人にとって、「ラチン」はなじみが深い地名である。アルメニア本土とナゴルノ・カラバフを結ぶ山岳道路がかつてこの街を経由し、「ラチン回廊」と呼ばれていたからである1

 ラチンはソ連時代、旧ナゴルノ・カラバフ自治州には含まれず、自治州とアルメニア本土との狭間に位置していた。回廊の沿道では唯一かつ最大の街であり、ソ連時代には6000人の人口を抱えたこともあった。1990年代の第1次ナゴルノ・カラバフ紛争で旧自治州とともにアルメニア支配下に入ったことから、住民の多数を占めたアゼルバイジャン人2は国内避難民(IDP)となって流出した。2020年の第2次ナゴルノ・カラバフ紛争後はしばらく係争状態に陥ったが、2022年にアゼルバイジャン側が事実上制圧した。アルメニア人住民は本土に避難し、アゼルバイジャン人国内避難民の帰還が始まった。

 ラチンへの訪問は筆者からの要請でなく、アゼルバイジャン当局からの提案である。恐らく、その復興ぶりを見せたかったのだろう。実際、住民の帰還が始まっていないアグダム、帰還は進んでいるものの雇用が限られるシュシャに比べ、ラチンには企業が立地し、雇用機会も創出されているからである。

 その前の訪問地であるナゴルノ・カラバフの古都シュシャから、車でラチンに向かった。

ラチン回廊
地図作成:筆者

ラチン回廊を南下

 シュシャの岩山を下ると十字路に差し掛かり、脇に歩哨が立っている。ここはもともと三叉路だったが、第2次紛争後にアゼルバイジャンがフュズリからの道路を建設してここで合流させ、4方向の道路が交わる場所となった。シュシャ、フュズリ、ハンケンディ(アルメニア名:ステパナケルト)、ラチンへの道である。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
国末憲人(くにすえのりと) 東京大学先端科学技術研究センター特任教授、本誌特別編集委員 1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局長、論説委員、GLOBE編集長、朝日新聞ヨーロッパ総局長などを歴任した。2024年1月より現職。著書に『ロシア・ウクライナ戦争 近景と遠景』(岩波書店)、『ポピュリズム化する世界』(プレジデント社)、『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『イラク戦争の深淵』『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)、『テロリストの誕生 イスラム過激派テロの虚像と実像』(草思社)など多数。
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