ロシア軍の兵力増強で緊張が高まるウクライナ情勢で、ジョー・バイデン米大統領は、
「2月中に侵攻する可能性が高い」
「地面が凍結して侵攻しやすくなるタイミングを狙っている」
などと危機感を強めている。
ウクライナ側は、
「限定的な攻撃はあっても、全面侵攻の可能性は低い」(ウクライナ軍高官)
との見方で、両国間で認識の差がある。ドイツのブルーノ・カール情報局長官は1月28日、『ロイター通信』に対し、
「ロシアは攻撃する準備ができているが、攻撃するかどうかはまだ決めていない」
と述べた。フランスなども慎重な分析で、バイデン政権の慌てぶりが突出している。
ロシアにとって、米政府が動揺するのは望み通りの展開だろう。ウラジーミル・プーチン露大統領にとっては、軍事威圧はウクライナだけでなく、バイデン氏個人を揺さぶる「報復」の目的がありそうだ。
アメリカに「能力と決意」を示す狙いも
ウクライナ情勢はこの4、5年膠着状態にあり、ロシアがドナルド・トランプ政権時代に国境に兵力を増派することはなかった。ロシアが昨年3月、10万人規模の兵力を増派したのは、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー政権が2月に「クリミア奪還国際会議」開催を発表したこともあるが、バイデン政権誕生が最大の誘因だろう。バイデン氏がプーチン大統領を「殺し屋」呼ばわりした直後のタイミングだった。
その後、米露首脳会談開催が決まると、ロシアは約半数の兵力を撤収させ、6月のジュネーブでの首脳会談を挟んで同レベルで推移していた。しかし、10月末にウクライナ軍がトルコ製ドローンを使った攻撃を行った後、ロシアは11月から再び国境周辺で春以上の大規模展開に着手した。
ロシアのドミトリー・トレーニン・カーネギー財団モスクワ・センター所長は、英紙『フィナンシャル・タイムズ』(1月27日)との会見で、
「現在の軍備増強は、ウクライナに向けたものではなく、アメリカに向けられたものだ。欧州安全保障問題でロシアのパートナーは1つしかなく、それは欧州ではなく米国だ。米国の注意を引くためには、自らの能力と決意を示さねばならない」
と指摘した。トレーニン氏はさらに、
「プーチンは言葉や議論だけでは、アメリカを一歩も動かせないという結論に達したのだろう。ウクライナが問題の中心ながら、問題の本質はロシアにとってのアメリカだ」
と述べた。
同氏が指摘するように、対米関係の駆け引きを意識した兵力増強なら、大規模侵攻の可能性は少ない。一方でプーチン大統領は、「ロシアとウクライナは一体」という「歴史神話」に固執している。「神話」にこだわれば、聖地キエフ奪還を含め、大規模侵攻の可能性が高まる。
大統領が「欧州安全保障」と「大ロシア主義」のどちらに比重を置くかが、今後の展開の鍵になりそうだ。
バイデン氏が2011年に与えた屈辱
過去のプーチン・バイデン関係をみると、プーチン大統領はバイデン氏を個人的に嫌っていることが分かる。兵力増強はバイデン氏個人に向けられたのでは、とも思えてくる。
プーチン、バイデン両氏の初会談は2011年3月、モスクワで行われ、2人の肩書は首相と副大統領だった。1年後のロシア大統領選で、ドミトリー・メドベージェフ大統領が続投するか、プーチン首相が大統領に復帰するかが注目されていた時期だ。
当時、ロシア紙『独立新聞』は、バイデン副大統領の訪問は、メドベージェフ再選に向けて、米政府がロシア政界に働き掛ける目的があったと伝えていた。
バイデン氏は会談で、スポーツ万能のプーチン氏に対し、国際オリンピック委員会(IOC)会長のポストを打診し、
「米政府は全面的に支援する」
と述べたという。政権内リベラル派のメドベージェフ大統領はバラク・オバマ大統領とケミストリーが合い、オバマ政権はメドベージェフ続投を望んでいた。
バイデン氏はこの時の訪問で、ロシアの反政府活動家らを米大使公邸に招いて懇談し、
「プーチンは2012年の大統領選に出馬しない方がいい。ロシアにとっても、世界にとってもそれが望ましい」
と述べたという。
プーチン大統領は個人的に受けた屈辱を根に持つタイプで、バイデン氏への報復を誓ったかもしれない。
安倍政権にウクライナ支援を促したのは誰か
バイデン氏は副大統領在任中の8年間にウクライナを6回も訪問しており、オバマ政権のウクライナ政策を統括した。2009年の最初の訪問で、
「ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)加盟を選択するなら、米国は強く支持する」
と述べた。
ウクライナ危機が起きた2014年には3度キエフを訪れ、
「米国はロシアの違法なクリミア占領を絶対に認めない」
と強調した。
ウクライナ軍はロシア軍戦車の撃退用に米国製対戦車ミサイル「ジャベリン」を約800基導入したが、最初に売却を提案したのはバイデン氏だった。しかし、オバマ大統領は「軍事バランスを崩す」として反対。後継のトランプ大統領が売却を進めた。
オバマ政権は安倍晋三首相(当時)の対露融和外交に終始批判的だったが、オバマ大統領が日露関係に関心があるとは思えず、反露・親ウクライナのバイデン副大統領が裏で動いたとみられる。
安倍首相は2015年6月、ウクライナを訪問し、財政支援や下水道処理施設改修で計3000億円の大型援助を約束した。これは米側の強い要請を受けたもので、「ロシアと交渉するなら、ウクライナを支援せよ」というバイデン氏の指示だったかもしれない。
バイデン氏の「ウクライナ・コネクション」は、次男がウクライナのエネルギー企業役員に就任し、高額報酬を受けていた疑惑が波紋を呼び、大統領選で問題になった。
当初はロシアとの対話を模索したウクライナのゼレンスキー政権が、「クリミア奪還」に言及するなどロシアに敵対し始めたのは、バイデン政権発足後だった。
プーチンに刷り込まれたオバマ政権の「弱さ」
プーチン大統領が、ウクライナへの肩入れを強めるバイデン氏を敵視したことは間違いない。
米連邦捜査局(FBI)によれば、2020年大統領選の民主党予備選で、ロシア情報機関は「社会主義者」を自認するバーニー・サンダース候補を支援し、バイデン候補を貶める偽情報工作を行った。本選挙では、2016年ほどの規模ではないにせよ、トランプ再選に向けたサイバー攻撃や偽情報工作を行ったという。
一方で、プーチン大統領はオバマ大統領の「引きこもり外交」を軽蔑していた。オバマ政権の世界的撤退の間隙を縫って、ウクライナに武力介入し、2015年にはシリア内戦に空軍部隊を送った。
オバマ政権の副大統領だったバイデン氏なら、武力攻撃の緊張を高めることで、安全保障上の譲歩を勝ち取れると考えたかもしれない。昨年8月のアフガニスタン親米派政権崩壊も、米国の弱さを印象付けた。
前出のトレーニン氏は、
「この30年間、欧州の安全保障は基本的に米国に支配され、NATOがその主要な手段になった。プーチンの目的は、米国主導の欧州安保システムを西欧とロシアの二本柱の構造に変えることだ」
と指摘した。
相手がバイデン政権なら、ロシアに不利な欧州安全保障体制を修正するチャンスという見立てだ。
ロシアは昨年12月、(1)NATOの東方拡大中止(2)在外配備の米軍核兵器撤去(3)欧州のNATO軍事配備を1997年の水準に縮小――など8項目の条約案を米国に提示した。いずれも米側が応じられない内容ばかりで、交渉進展は難しい。外交交渉決裂のタイミングが、緊張を著しく高めそうだ。
1月下旬に中南米の3首脳と電話会談
プーチン大統領の対米挑発がエスカレートすれば、「第2のキューバ危機」に発展しかねない。
実はプーチン大統領は1月下旬、ニカラグア、ベネズエラ、キューバの中南米3首脳と相次いで電話会談している。クレムリンの発表では、新型コロナ対策でロシア製ワクチンの提供やエネルギー協力が話し合われたとされるが、ウクライナ危機のさ中に懸案もないこれら3国と電話協議するのは異例だ。
『ニューヨーク・タイムズ』(1月24日付)は、ロシア政府関係者の話として、
「ロシアは核兵器を西半球に配備し、米国の諸都市を短時間で攻撃できる場所に置くことを検討するかもしれない」
と伝えた。そのために、中南米の反米3国にミサイル配備を打診した可能性があるという。
ミサイル配備が実現すれば、1962年にソ連がキューバに核ミサイルを持ち込み、一触即発の核戦争の脅威が13日間続いた60年前の「キューバ危機」の再現となる。
キューバ危機は、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相が若いジョン・F・ケネディ大統領を試そうと挑発したものだった。今度は、プーチン大統領が高齢のバイデン大統領を試そうと挑発するかもしれない。
ケネディ、バイデン両大統領はアイルランド系カトリックで、カトリック教徒の米大統領はこの2人しかいない。
バイデン氏は2013年、ケネディ大統領を回顧する著作集に寄稿し、
「ケネディが当選した時、私は高校生だった。ケネディは就任演説から月面到達の夢まで、あらゆる可能性を切り開いた。1960年代、われわれアイルランド系カトリックは二級市民とみなされていたが、彼のおかげでプライドを持てた」
と書いていた。
世界は「キューバ危機再来」という歴史のアナロジーに怯えることになるかもしれない。