第2部 チェルノブイリの捕虜たち(3) 473日の拘束

執筆者:国末憲人 2024年12月6日
エリア: ヨーロッパ
ロシア南西部クルスク州に国境を接するウクライナのスーミ州で解放されたアンドリー・グリシェンコ(本人提供)
アンドリー・グリシェンコはトゥーラ州ドンスコイの第1刑務所に移送された。殴られることはさらに増えた。27歳の誕生日を迎えたその日、アンドリーは家族に電話する機会を与えられた。もちろん監視の下で、盗聴もされていたはずだ。母は、「仕事の帰りにスーパーに寄って、ケーキを買って帰ったんだ。おばあちゃんのところに行って、あんたの誕生日をお祝いするよ」と短くいった。原発に調理師として勤める母が「仕事」に行っていたことは、原発の状態が正常であることを意味している。「ケーキ」は、食料が十分にあることを示唆していた。ロシアに連れてこられて473日目、アンドリーは捕虜交換で解放された。90キロあった体重は、48キロにまで落ちていた。【現地レポート】

 ロシア軍によって捕虜として連れ去られたチェルノブイリ原発の警備隊員169人は、ベラルーシを経由してロシアに移送された後、運命がばらばらになった。オレクシー・ルトチェンコ(47)は、数々の暴行を受けながらも、8カ月あまりで解放された。しかし、翌2023年まで拘束された人、さらには2024年現在もまだ帰還できていない人も、多数存在する。

 ロシア西部ブリャンスク州ノヴォジブコフ第2拘置所に収容されたアンドリー・グリシェンコ(28)は、その場所で年を越した。侵攻から1年が経ち、やがてここの拘置所生活が440日を超えた2023年5月13日、彼はモスクワに近いトゥーラ州ドンスコイの第1刑務所に移送された。

プーチンは「能なし!」

 ここでは、ノヴォジブコフの拘置所よりも厳しい生活を強いられた。毎晩2度、真夜中にわざと起こされ、立つよう強いられた。毎朝ロシア国歌を歌わされるのは前の場所と同じだが、ただ歌っていれば良かった以前とは異なり、捕虜たちの声が合わないとすぐに殴られた。「ロシア万歳」と言わされ、かけ声を唱えさせられた。

 バイデンは?

「ホモ野郎!」1

 ゼレンスキーは?

「ホモ野郎!」

 プーチンは?

「世界一の大統領」

 同性愛者を敵視する現代ロシアの意識が透けて見える言い回しである。

 ところがある日、「プーチンは?」と問いかけられた際に、捕虜の1人が「能なし!」と叫んでしまった。意図したわけではない。ロシア大統領ウラジーミル・プーチンをウクライナで罵倒する際にしばしば使われるスローガン「プーチンは能なし!」2(プーチン・フイロ!) がつい、口に出てしまったのである。言った本人のみならず、同じ階に収容された隊員みんなが、その日は散々殴られた。

「とても笑えませんでした。でも、実はその言葉を聞いてうれしくもあったのですけどね」

現在のアンドリー・グリシェンコ(筆者撮影)

家族への電話

 アンドリーは拘束されて以降、パンツの着替えをもらえないままでいた。約1年半にわたって同じパンツと同じ靴下をはいていた。その靴下も、ドンスコイに移った際に取り上げられてしまった。ドンスコイで捕虜らは、だれも靴下をはいていなかった。

 ドンスコイ移送から数日後、アンドリーは27歳の誕生日を迎えた。その日、彼は後ろ手で拘束され、中庭に連れていかれた。他にも、別の部屋から選ばれた30人が同席していた。

 彼のところに、監視役とは異なる人物が顔を隠してやってきた。ロシア連邦保安局(FSB)の人間だと思われた。彼は言った。

「皆さんに、偉大な帝国からのすばらしいプレゼントがあります。家族と話ができるのです」

カテゴリ: 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
国末憲人(くにすえのりと) 東京大学先端科学技術研究センター特任教授、本誌特別編集委員 1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局長、論説委員、GLOBE編集長、朝日新聞ヨーロッパ総局長などを歴任した。2024年1月より現職。著書に『ロシア・ウクライナ戦争 近景と遠景』(岩波書店)、『ポピュリズム化する世界』(プレジデント社)、『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『イラク戦争の深淵』『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)、『テロリストの誕生 イスラム過激派テロの虚像と実像』(草思社)など多数。
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