第2部 チェルノブイリの捕虜たち(5) 占領地の明暗

執筆者:国末憲人 2024年12月8日
エリア: ヨーロッパ
2022年3月26日、スラヴチチの反ロ集会に参加したスタニスラウ・シェクステロ(右)と妻(同氏提供)

 チェルノブイリ原発に勤務する技術者や科学者、警備隊員らが暮らすスラヴチチの街に、戦争の影は一見薄い。2022年2月から3月にかけてロシア軍に占領されたウクライナ北部では、攻撃を受けて損傷した集合住宅、焼け焦げた家屋、破壊されたインフラがまだあちこちで目立つが、この街にはほとんど見られない。実際、街中での死者は1人もいないという。ブチャでの虐殺に代表されるように、首都キーウ周辺からウクライナ北部にかけての相当数の都市や町村では、多かれ少なかれ犠牲者が出ているだけに、希な例だといえる。

 街はどのようにして惨事を免れたのだろうか。

「気分はレニングラード」

 ウクライナに2022年2月24日、一斉侵攻したロシア軍のうち、首都キーウ攻略を目指した部隊は、主に2つのルートに沿って南下した。1つはベラルーシ領内からで、チェルノブイリ原発を占領して勤務者らを拘束するとともに、さらに南下してドニプロ川右岸に広く展開した一群である。その一部は北西方向から首都に入ろうとして、イルピンに陣取ったウクライナ軍に行く手を阻まれ、その手前のブチャに滞留して虐殺を引き起こした。もう1つは、ロシア領内からチェルニヒウ州に侵攻してドニプロ川左岸に展開した一群である。北部の中心都市チェルニヒウを包囲するとともに、その一部の第6親衛戦車連隊がキーウ東郊ボロバリ近くまで進撃した。しかし、高速道路上を走行中にウクライナ側の待ち伏せに遭い、部隊は総崩れとなり、連隊長は戦死した。ドローンから撮影されたその場面はSNSを通じて世界に共有され、ロシアの作戦失敗を強く印象づけた。

 ドニプロ川の東側にあたるスラヴチチ付近には、後者の一群が来たはずである。ただ、当初ロシア軍は街に入らず、さらに南に向かった。

 なぜスラヴチチを素通りしたのだろうか。「スラヴチチ地域史・チェルノブイリ原発博物館」館長クリスティーナ・ベリチェンコ(35)は、ロシア軍がソ連時代の古い地図を使っており、この街が掲載されていなかったからではないかと推測する。スラヴチチが建設されたのはソ連末期の1986年であり、しかも存在を公表されない閉鎖都市だった可能性もある。一方、スラヴチチ市長のユーリ・フォミチョウ(48)の見方は、少し異なる。

「確かにソ連の地図には、この街は載っていません。ただ、現代ではドローンで偵察もしているし、『気づかなかった』というのはつくり話でしょう。実際には、特段の軍事施設もないスラヴチチに、占領するだけの戦略的価値がなかったからだと思います」

 スラヴチチは確かに、街道から外れた森の中に位置しており、キーウに向けて進軍するロシア軍の通過ルートとは方角が異なる。街はひとまず、破壊や虐殺を免れた。危機にさらされたのは、1カ月あまり続いたロシア軍の占領期間の終わりごろだった。

 キーウ近郊でウクライナ側の徹底抗戦に遭い、行く手を阻まれたロシア軍は、兵站面で課題を抱えるようになった。補給線が伸びすぎ、途中を切断されると大きな損害を被る状態である。ロシア軍はキーウの早期攻略を諦め、兵力をウクライナ東部戦線に集中させる作戦変更を余儀なくされた1。首都周辺やチェルニヒウ州にいた部隊は、3月末から4月初めにかけて、次々と撤退した。

 侵攻後1カ月近く、スラヴチチの人々は比較的穏やかな日々を過ごしていた。ロシア軍のドローンは時々飛んでくるが、街に落ちることはなかった。ただ、食料は不足した。ロシア軍が知らない森の中の小道を通じて物資は持ち込まれていたものの、1人あたり1日2切れのパンの配給を受け取るために、4時間から6時間ほど行列に並ばなければならなかった。

スラヴチチで配給されていたパン。大人2人3日間で400グラムだったという(スタニスラウ・シェクステロ氏提供)

「食べる時に落とすパンのかけらも集めました。この時のパンの味は、もう一生忘れられません。途中で停電になり、ガスも来なくなり、薪を割って近所の人々と順番に料理をしました。生活はソ連時代よりひどく、包囲されたレニングラードにいる気分でした」

「スラヴチチ地域史・チェルノブイリ原発博物館」でガイドを務めるスタニスラウ・シェクステロ(68)は振り返った。この街の停電は、チェルノブイリ原発も停電した3月9日である。恐らく同じ原因だろう。

 街に変化が起きたのは、侵攻から1カ月近く経った3月21日だった。

凄惨な虐殺が行われたブチャをはじめとして、ウクライナ北部は侵略初期に多数の犠牲者を出している。一斉侵攻で首都キーウ攻略を狙ったロシア軍が、原発警備員の家族が暮らすスラヴチチを蹂躙する可能性もあったはずだ。実際には少ない被害で済んだのはなぜか。ロシア軍が街に入ろうとした2022年3月21日から月末にかけての状況を、ユーリ・フォミチョウ市長の証言などから浮彫りにする。そこにはロシア軍内の格差、ひいてはロシア社会の分断ぶりも作用していたと考えられる。【現地レポート】
カテゴリ: 軍事・防衛
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執筆者プロフィール
国末憲人(くにすえのりと) 東京大学先端科学技術研究センター特任教授、本誌特別編集委員 1963年岡山県生まれ。85年大阪大学卒業。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。パリ支局長、論説委員、GLOBE編集長、朝日新聞ヨーロッパ総局長などを歴任した。2024年1月より現職。著書に『ロシア・ウクライナ戦争 近景と遠景』(岩波書店)、『ポピュリズム化する世界』(プレジデント社)、『自爆テロリストの正体』『サルコジ』『ミシュラン 三つ星と世界戦略』(いずれも新潮社)、『イラク戦争の深淵』『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『巨大「実験国家」EUは生き残れるのか?』(いずれも草思社)、『ユネスコ「無形文化遺産」』(平凡社)、『テロリストの誕生 イスラム過激派テロの虚像と実像』(草思社)など多数。
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