ゴルバチョフ「新思考外交」の明暗――日独の格差はどこから来たか

執筆者:名越健郎 2022年9月12日
エリア: アジア ヨーロッパ
1990年7月15日、ゴルバチョフ大統領(中央)の故郷を訪れたコール首相(右)とゲンシャー外相(左)。コールの右隣に立つのはシュワルナゼ外相、中央の女性はライサ・ゴルバチョフ夫人。この歓談からドイツ再統一は一気に進展した   (c)EPA=時事
ゴルバチョフの「新思考外交」というムーブメントは、そのピークにおいては想像を超える寛容さを持ち、そして急速に力を失った。東西統一という大事業に結びつけたドイツと、北方領土「ビザなし交流」を辛うじて引き出せただけの日本。この圧倒的な格差は、ソ連・ロシアとの交渉は政権初期に攻勢をかけてこそ意味があるという、“習性”の理解の相違から生じている。

ドイツが支えたゴルバチョフの晩年

 ミハイル・ゴルバチョフ旧ソ連大統領が8月30日にモスクワの病院で死去した後、一人娘のイリーナさんと2人の孫娘がドイツから慌ててモスクワを訪れた。3人はドイツに居住し、二重国籍とされる。イリーナさんは「ゴルバチョフ財団」のバイエルン支部長を務め、2人の孫娘もドイツで働いている。

 晩年のゴルバチョフは、財団の運営に苦慮しており、ドイツが官民挙げて資金援助していたようだ。ミュンヘンに近い湖畔の豪華別荘やベルリンの邸宅など不動産を持っていたが、ドイツが提供したとの噂もある。

 ゴルバチョフが統一ドイツ実現に果たした功績からすれば、安いものだろう。冷戦末期に巧みに動いたドイツが戦後処理を見事に完了したのに対し、日本政府・外務省は対ソ・対露外交に失敗し、北方領土問題は後退する一方だ。

ソ連保守派を押し切った欧州再編

 筆者はペレストロイカ(再編)がピークだった1988年からモスクワに記者として駐在したが、ゴルバチョフの「新思考外交」の最大の成果は欧州再編にあった。

 1985年にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは1987、88年に東欧同盟国を頻繁に訪れ、改革の必要を説き、各国の独自路線を容認した。ところが、東欧はゴルバチョフ改革に魅力を感じず、ソ連の力の衰えを察知し、一気に西側化を進めた。ベルリンの壁崩壊など東欧革命は1989年に集中し、一斉蜂起の様相を呈したため、ソ連は対応できず、放置するだけだった。

 この東欧喪失問題は1990年7月、最後のソ連共産党大会となった第28回大会で論議され、クレムリン大宮殿での論戦は迫力があった。

 保守派や退役軍人らの代議員は、「新思考外交が東欧同盟諸国を喪失させた。北大西洋条約機構(NATO)は強化されているのに、ワルシャワ条約機構は解体する」「東欧からのソ連軍撤退はあまりに性急な決定だ。われわれの父や兄が血であがなった欧州から一戦も戦わずに撤退していいのか」などとゴルバチョフ指導部を追及した。

 これに対し、ソ連のエドアルド・シェワルナゼ外相は「1956年と68年の戦車による東欧弾圧こそが、東欧諸国民をソ連から離反させたのだ。武力によって維持されるブロックなど意味がない」と反論。ゴルバチョフの盟友、アレクサンドル・ヤコブレフソ連共産党政治局員は「共産党がいくら決定、決議を下したところで、東独の生活水準が西独より劣る事実は隠せない」と述べた。ゴルバチョフは「われわれの外交政策は全面的に正しい。それが東欧社会主義を崩壊させたというなら、もう一度戦車を送り込んで彼らを矯正すると言うのか」と開き直った。

 この3人の捨て身の反論は説得力を持ち、国内に東欧喪失やむなしという世論を定着させた。

露天風呂会談に賭けたコール首相

 激論の共産党大会が閉幕した翌日、ドイツのヘルムート・コール首相とハンス=ディートリヒ・ゲンシャー副首相兼外相がモスクワを訪れ、ノーマークだったので慌てたことを覚えている。ゴルバチョフ、コール両首脳は親交を深めるため、互いの出身地を訪れることで合意しており、一行はモスクワでの会談後、ゴルバチョフの故郷である南部・スタブロポリ地方を訪れた。

 実は、1989年11月にベルリンの壁が崩壊した後、ドイツ統一プロセスは難航していた。統一プロセスを協議する東西ドイツと米ソ英仏の「2+4交渉」は、ドイツの強大化を恐れる英仏両国が統一に難色を示して難航。米国も座視していた。東独国内の社会経済情勢も混乱してきた。

 コールはゴルバチョフとの直談判で統一プロセスを動かそうとし、スタブロポリ地方の有名な保養地でゴルバチョフと露天風呂に入って協議した。体重130キロのコールにとって、露天風呂は苦痛だったはずだが、この訪問に政治生命を賭けた。

 その結果、首脳会談は、自由で自主的な統一や統一ドイツのNATO加盟をソ連が容認。東独駐留ソ連軍の撤退やソ連軍将兵のための住宅建設支援、統一後の独ソ善隣友好協力条約締結で合意した。これが突破口となり、統一プロセスは一気に進展。1990年10月3日、西独が東独を吸収する形でドイツ統一が実現した。

 ゴルバチョフは『ゴルバチョフ回想録(下巻)』(新潮社)の中で、ヘリでコーカサス山脈のアルフィズ渓谷の別荘に向かい、宿泊して交渉したとし、「コールはひどく緊張し、粘り強かった。私たちはぎりぎりまで腹蔵なく話し合った」「これはドイツ統一が独立した問題ではなく、新しいヨーロッパへの共同行動の一環であるというわれわれの見解を反映した総合的交渉であった」と書いている。

プーチンが悔やんだ「バーゲンセール」

 東欧喪失と同様、ドイツ再統一に対するゴルバチョフの寛容さは想像を超えるものだった。

 書記長就任後のゴルバチョフは、東独を「戦略的同盟国」と称し、統一に反対していた。しかし、統一が不可避となると、ドイツ中立化や非同盟化、東西軍事機構同時加盟といった構想を次々に提示した。結局いずれの提案も相手にされず、コールの主張に歩み寄った。この間の経緯は、国内政策同様、ゴルバチョフの場当たり主義を象徴しており、歴史の流れに抗しきれなかった。

 統一容認でドイツ側がソ連に支払ったコストも驚くほど安かった。ドイツが提供したのは、ソ連軍将兵の住宅建設のための200億マルク(当時のレートで約1兆8000億円)程度で、その他の経済援助も大半は返済が必要な融資だった。

 ソ連保守派は「東独をボンに売り渡すバーゲンセール」(ビクトル・アルクスニス元ロシア下院議員)などと酷評した。

 ベルリンの壁崩壊時、東独のドレスデンに駐在していたウラジーミル・プーチン国家保安委員会(KGB)中佐は、ドイツ統一で仕事を失い、失意の中で帰国した。プーチンは2000年に出版された回想録『プーチン、自らを語る』(扶桑社)で、ドイツ統一について、「正直な話、私が悔やんでいるのは、ソ連がヨーロッパにおける立場を失ったことだ。ソ連はすべてを手放して、立ち去った」と指摘している。

“用なし”ゴルバチョフを切り捨てたコール

 1990年11月、出身地の相互訪問合意に沿って、今度はゴルバチョフがドイツを訪れ、コールの故郷である南部のラインラント=プファルツ州を一緒に訪れた。ドイツ統一は10月に完了して懸案もなく、双方は独ソ善隣友好協力条約に調印しただけだった。

 筆者はこの訪問を同行取材したが、ゴルバチョフとコールは平凡な田舎町のシュパイヤール市を視察し、コールの自宅で会談した後、夕刻、家の前の道路を封鎖して即席の記者会見が行われた。会見は拡声器を使い、記者団は路上に腰を下ろし、住民らも詰めかけて1000人以上でごった返した。質問はいつも通りゴルバチョフに集中、ゴルバチョフはなめらかに答えた。

 会見が40分ほど過ぎた頃、コールが突然、会見の打ち切りを宣言した。まだ多くの記者が手を挙げていたが、コールは「ゴルバチョフ氏は忙しい。もう十分だろう」と容赦なく終了を宣言した。ゴルバチョフはまだ話し足りない様子で、慌てた表情を見せた。

 ゴルバチョフが西欧を訪れた時は、本当に楽しそうだった。パリやローマ、ボンでは多数の市民が街頭に出てゴルバチョフを歓迎する。ゴルバチョフは笑顔を絶やさず、演説のレトリックも冴えわたり、いくつもの合意が次々に締結される。

 1990年ごろ、ソ連国内では物不足や行列で、ゴルバチョフ人気はすっかり低落。民衆や保守派から罵倒され、海外と国内の評価が180度異なっていた。ゴルバチョフが外遊を終え、空港を飛び立つたびに、敵陣に乗り込むような緊張感と悲壮感を感じたものだ。

 だから、ゴルバチョフはこの時も、得意の会見を続けて外遊の余韻にひたろうとした。だが、東西ドイツ統一の大事業が待ち構えるコールにとって、ゴルバチョフはもはや用なしであり、いつまでもおしゃべりに付き合いきれない。会見打ち切りの一瞬のドラマに、政治家の非情さ、ドライさを実感した。

 ゴルバチョフは回想録で、コールの郷里訪問のくだりの最後に、「……母国では、困難な日々と月々が私たちを待っていた」と書いている。

日本の失策パターンは「出遅れ」にある

 ドイツ統一が実現した頃、日本外務省ではいよいよゴルバチョフの訪日を実現し、北方領土問題を前進させる構想が語られていた。

 しかし、ソ連の内政事情などから、ゴルバチョフ訪日はさらに遅れ、1991年4月に実現した。この頃には、ゴルバチョフの権力基盤は一段と弱体化し、左右両勢力から挟撃を受け、この年の12月、ソ連崩壊で失脚する。

 ソ連最高首脳の初の訪日は成果に乏しく、海部俊樹首相と会談したゴルバチョフは、北方領土問題の存在を認めた程度で、歯舞、色丹引き渡しをうたった1956年日ソ共同宣言も確認しなかった。ゴルバチョフがドイツにあれほど譲歩したのに、日本に厳しかったのは、ソ連の内政・外交のタイミングによる部分も大きい。

 米・カナダ研究所のビクトル・クレメニュク研究員は後に、「ソ連・ロシアとの交渉では、大統領1期目をヤマ場にすべきだ。2期目になると、もう政権に陰りが生じ、外交の妥協ができなくなる」と指摘していた

 欧米諸国はこうした習性を見越して、政権初期に外交攻勢をかけ、成果を挙げた。これに対し、日本はソ連・ロシアの新政権の出方を見極め、権力基盤が固まった後、本格交渉に着手する。

 その結果、政権晩年に訪日したゴルバチョフは、もはや領土で譲歩できる状態ではなかった。ボリス・エリツィン大統領との本格交渉も、政権2期目に橋本龍太郎首相との間で実現したが、エリツィンは既に政治力と体力を失っており、案の定失敗した。

 プーチンに対しても、安倍晋三首相が大統領3期目に本格交渉を展開したが、ロシアの政権体質は愛国主義と反米主義に変わってしまっており、予想通り失敗した。対ソ・対露交渉では、タイミングを見誤り、後から出て行って玉砕するのが日本外交のパターンだ。

 ジェームズ・ベーカー元米国務長官が何度も強調したように、「外交はタイミングがすべて」なのだ。

 ゴルバチョフ訪日の最大の成果は北方領土の「ビザなし交流」だったが、その成果もこの9月5日、ロシア政府から一方的に合意を破棄する政令が出された。戦後の日本政府・外務省の対露外交失敗史を象徴するような展開となった。

カテゴリ: 政治
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執筆者プロフィール
名越健郎 1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社、外信部、バンコク支局、モスクワ支局、ワシントン支局、外信部長、編集局次長、仙台支社長を歴任。2011年、同社退社。拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学特任教授を経て、2022年から拓殖大学特任教授。著書に、『秘密資金の戦後政党史』(新潮選書)、『ジョークで読む世界ウラ事情』(日経プレミアシリーズ)、『独裁者プーチン』(文春新書)など。
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